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成り上がるだけではBOSSになれないぜ! 矢沢永吉 [ファミリー]

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矢沢永吉 Eikichi Yazawa

<矢沢永吉との出会い>

 正直言って僕は、矢沢永吉を「永ちゃん」と呼ぶほどのファンだったわけではありません。でも、その分かなり客観的に矢沢流ロックというものを聴いてきたかもしれません。
 出会いは、やっぱり「ファンキー・モンキー・ベイビー」でした。しかし、それは矢沢永吉による歌ではなく高校時代の学園祭におけるアマチュア・バンドの演奏が最初だったはずです。そして、その演奏が妙に印象に残りました。
 時は1970年代の後半、高校のアマチュア・バンドの間では、ブリティッシュ・ロック系のコピー・バンドが主流を占めていました。特に、北海道ではなぜかディープ・パープルが人気ナンバー1で、他のバンドを大きく引き離していました。そんな中、日本のロックはまだまだ地方までは浸透しておらず、キャロルは唯一気を吐いていたと言えるでしょう。(歌詞の話題性でダウンタウン・ブギ・ウギ・バンドも人気がありましたが、キャロルの人気とはまた別物でした)そして、このキャロルのコピー・バンドは、文句なしに学園祭の花形バンドのひとつでした。(もちろん彼らがなかなか上手かったせいまあるのですが)
「日本のロックもけっこうやるもんじゃないの」そんなわけで、生意気なロック小僧だった僕に、日本のロックを最初に意識させてくれたのが、矢沢永吉率いるキャロルだったのです。

<キャロルとビートルズ> 

矢沢永吉は、1949年広島に生まれました。ロック・ミュージシャンに憧れていた彼は、1968年横浜にやってきて音楽活動を始め、1972年にキャロルを結成しました。彼らの本拠地は、東京でもなく、横浜でもなく川崎でした。そこがまたキャロルらしかったと言えそうです。(実は、私かつて川崎市民でした)
 メンバーは、矢沢永吉(Bass,Vo)、ジョニー大倉(Gui,Vo)、内海利勝(Gui.)、相原誠(Dr.すぐに岡崎ユウに変わった)の四人だった。
 あくまでもロックン・ロールにこだわる彼らがめざしたサウンドは、1960年代前半、デビューしたてのビートルズだったようです。(デビュー前、ドイツで武者修行をしていた当時のビートルズというべきかもしれません)2分半のロックン・ロール・ナンバーと不良っぽい独特のファッション、それにジョニー大倉による英語をおりまぜた独特の歌詞は、日本のロックに新しいスタイルを誕生させた。(この流れはB’sなどへと受け継がれていると言えるでしょう)
 そして、彼らの人気が爆発したきっかけがヤング向けのテレビ番組(フジTVの「リブ・ヤング」)だったというのもまた、J-ポップの未来を先取りしていたと言えるかもしれません。

<キャロル、デビューからブレイクへ> 

彼らは1973年デビュー・アルバム「ルイジアンナ」を発表します。プロデューサーは、日本のロックの草分け的存在、サムライを率いていた元ロカビリー歌手のミッキー・カーティス。彼はキャロルにオリジナルとロックン・ロールのカバーを半分ずつ録音させ、これまたビートルズやローリング・ストーンズのデビュー当時を思わせるアルバムを作り上げました。
 しかし、キャロルの本当の魅力が発揮されたのは、ファーストの後すぐに発売されたセカンド・アルバム「ファンキー・モンキー・ベイビー」でした。このアルバムは、前作と違い全曲オリジナル(矢沢永吉作曲、ジョニー大倉作詞)で固められ、荒々しい音づくりも含めてキャロルらしさを100%前面に押し出したつくりになっていました。こうなると、キャロルの勢いは誰にも止められず、次々にヒットを飛ばし始めます。「ライブ・イン”リブ・ヤング”」(1973年)、「ファースト」(1974年)、「グッバイ・キャロル」(1975年)。あっという間の3年間でした。

<キャロル解散>

 しかし、矢沢自身も語っているように、これだけテンションの高い音楽は、そういつまでも生み出せるものではありませんでした。4人の編成でできうる限りのことをやると、キャロルは1975年、伝説的な解散コンサートを行い、その活動をあっさりと終えます。


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