落合みつを Smile Factory 情報 [ファミリー]
落合みつをが代表を努めるレコードレーベル『Smile Factory』
アーティストが自立して音楽を発信してゆく事をテーマとし、自主制作で頑張っている実力派のアーティストを支援し活動している。
ジャンルを越え「心に響く歌」をキーワードに、様々なアーティストの音楽を全国へと発信している。
「落合みつを」を含め新潟出身のアーティスト達の音楽と共にその歌の背景にある食や文化を知ってもらう事をコンセプトに始まったイベント。
出身地も様々なアーティストが集い始めたのをきっかけに新潟県出身者だけに留まらず、実力派アーティストでありながら大手事務所やマネジメントに頼らず頑張っているアーティストを世に輩出していこう、とその主旨も回を追うごとに徐々に変化して行なっている。
「心に響く歌」をキーワードに集まるアーティスト達。
Smile Factoryから発信するアーティストによるオムニバス「Smile Factory Vo.1」
09年1月に行なわれたフジテレビ主催「はちたま MUSIC NIGHT」でマンスリーグランプリを受賞した「落合みつを」を筆頭にクラシカルなバイオリンを哀愁あるメロディーに織り込んだ「ソラリズム」や南国と新潟の音楽を融合させた「桑名&パタヤビーチボーイズ」、新潟をベースに全国へ活動を広げ、勢いが止まらない「真季」、新宿のど真ん中で生まれ育った純朴なるシンガー「原川英明」と楽曲にチカラのある多彩なアーティストが顔を連ねたSmile Factoryが自信を持って送り出すオムニバスアルバム。
アーティストが自立して音楽を発信してゆく事をテーマとし、自主制作で頑張っている実力派のアーティストを支援し活動している。
ジャンルを越え「心に響く歌」をキーワードに、様々なアーティストの音楽を全国へと発信している。
「落合みつを」を含め新潟出身のアーティスト達の音楽と共にその歌の背景にある食や文化を知ってもらう事をコンセプトに始まったイベント。
出身地も様々なアーティストが集い始めたのをきっかけに新潟県出身者だけに留まらず、実力派アーティストでありながら大手事務所やマネジメントに頼らず頑張っているアーティストを世に輩出していこう、とその主旨も回を追うごとに徐々に変化して行なっている。
「心に響く歌」をキーワードに集まるアーティスト達。
Smile Factoryから発信するアーティストによるオムニバス「Smile Factory Vo.1」
09年1月に行なわれたフジテレビ主催「はちたま MUSIC NIGHT」でマンスリーグランプリを受賞した「落合みつを」を筆頭にクラシカルなバイオリンを哀愁あるメロディーに織り込んだ「ソラリズム」や南国と新潟の音楽を融合させた「桑名&パタヤビーチボーイズ」、新潟をベースに全国へ活動を広げ、勢いが止まらない「真季」、新宿のど真ん中で生まれ育った純朴なるシンガー「原川英明」と楽曲にチカラのある多彩なアーティストが顔を連ねたSmile Factoryが自信を持って送り出すオムニバスアルバム。
トミー アイオミ(ブラック・サバス)を聞いていました。 [ファミリー]
ブラック・サバス
彼はギブソン・SGを使用し、ヘヴィな音を出す。また、パワー・コードを多用しながら抒情性も感じさせる同じフレーズの繰り返しにより、彼独特の雰囲気を持たせ音世界が特徴である。ただ、その灰汁の強さ故に聴き手を限定する事もある。
「ナショナル・アクロバット」や「イントゥ・ザ・ヴォイド」「パラノイド」「スノウブラインド」など、1970年代初期の作品に、彼の特徴が強く表れている。何かに追われているような緊張感、と矛盾するような開放感を併せ持っている。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど他のバンドと同様に、独創性のある超重量級の音色や重苦しさの表現が秀逸である。
1970年代初期の生の演奏においては速弾きを披露したり、ブルースや1950年代のロックンロールも演奏した。
彼の右手の中指と薬指は、機械工時代の事故で先端部分が失われている。これは、左利きのギタリストとしては致命的であった。しかし、右手の指の先端に洗剤のプラスチック容器を溶かして作ったチップをはめて、そのハンディを克服した。そのハンディを克服するきっかけとなったのは、同じく事故で左手の薬指と小指が動かなくなったものの、そのハンディを乗り越えた、ジャンゴ・ラインハルトというベルギーのギタリストの話を聞いたことがきっかけ、と言われる[要出典]。その逸話が、自分もそのハンディを克服しよう、という励みになったそうだ。
数多くの有名なフレーズを生み出したリフメイカー、リッチー・ブラックモアは、彼のリフメイカーとしての能力を「シンプルなリフが一番難しい。トニーはそれをわかっていてやっている。」と評している。
彼はギブソン・SGを使用し、ヘヴィな音を出す。また、パワー・コードを多用しながら抒情性も感じさせる同じフレーズの繰り返しにより、彼独特の雰囲気を持たせ音世界が特徴である。ただ、その灰汁の強さ故に聴き手を限定する事もある。
「ナショナル・アクロバット」や「イントゥ・ザ・ヴォイド」「パラノイド」「スノウブラインド」など、1970年代初期の作品に、彼の特徴が強く表れている。何かに追われているような緊張感、と矛盾するような開放感を併せ持っている。レッド・ツェッペリンやディープ・パープルなど他のバンドと同様に、独創性のある超重量級の音色や重苦しさの表現が秀逸である。
1970年代初期の生の演奏においては速弾きを披露したり、ブルースや1950年代のロックンロールも演奏した。
彼の右手の中指と薬指は、機械工時代の事故で先端部分が失われている。これは、左利きのギタリストとしては致命的であった。しかし、右手の指の先端に洗剤のプラスチック容器を溶かして作ったチップをはめて、そのハンディを克服した。そのハンディを克服するきっかけとなったのは、同じく事故で左手の薬指と小指が動かなくなったものの、そのハンディを乗り越えた、ジャンゴ・ラインハルトというベルギーのギタリストの話を聞いたことがきっかけ、と言われる[要出典]。その逸話が、自分もそのハンディを克服しよう、という励みになったそうだ。
数多くの有名なフレーズを生み出したリフメイカー、リッチー・ブラックモアは、彼のリフメイカーとしての能力を「シンプルなリフが一番難しい。トニーはそれをわかっていてやっている。」と評している。
ソニーがクオリティにこだわり抜いた自信作、Ver1.4対応の新HDMIケーブル [ファミリー]
HDMI 1.4 に対応したケーブルが各社から発売されるなか、ソニーから待望のHIGH SPEED with ETHERNET対応HDMIケーブルが発売された。TA-DA5500ESの開発と並行して音質の吟味を重ねたソニーの自信作であり、素材と構造のこだわりは半端ではない。価格が高価なこともあって、オーディオビジュアルファンのあいだでも大きな話題を集めている。
私自身もソニーの試聴室やイベントなどでそのパフォーマンスを何度か確認してきたが、いよいよ製品版が完成したので、早速自宅で試してみることにした。いうまでもなくHDMI 1.4対応機器ではなく、既存のBDプレーヤーやAVアンプでの比較である。
信号線の導体は銀メッキ純銅線(0.08mm×40本撚り)のツイストペアを使用しており、ソニーの標準的なHDMIケーブルに比べて導体の断面積は約4倍に及ぶという。シールドはノイズ除去性能にこだわった4重構造で、内側からアルミ箔シールド、銀メッキ銅編組シールド、2重の銅箔シールドという複雑な構成だ。被覆は当然ながら誘電率の低い発泡テフロンを採用しており、ハイエンドクラスのオーディオケーブルを思わせる外見はかなり迫力がある。ただし、ケーブル自体は意外なほどしなやかで、取り回しに苦労する心配はない。
プラグとケースは堅牢かつ精度の高い亜鉛ダイカスト製で、クローズアップ写真だけを見ると、これだけでちょっとしたコンポーネントのような雰囲気がある。内部にリブを入れるなどの対策を施して剛性と制振にこだわるのは、プラグとケース部の共振が音質に大きな影響を与えるという事実に開発陣が気付いたからで、私自身もその事実は経験的に認識している。
亜鉛ダイカスト製のケースには「HIGH SPEED/HEC」の文字が刻印されている(HEC:HDMI Ethernet Channel)。ヘクスグローブで固定されたケース内部は独自のリブ構造で強化されている
プラグ部にも亜鉛ダイカストを採用。写真ではわからないが、実物に触れると剛性の高さがわかる。PVCを透かして見えるシールド層は最外周の銅箔シールド
ケース部に重量のあるパーツを採用すると、それ自身の重みで機器の端子側に垂直方向の力が加わる心配があるが、BDP-LX91への接続例からもわかる通り、ケーブルの取り回しに注意すればそれほど神経質になる必要はなさそうだ。ラック背面などで管理が難しい場合は、市販のケーブル用インシュレーターを併用するといいだろう。
パイオニアのBDP-LX91のオーディオ用HDMI出力に接続。右側は形状比較用として映像出力側に接続したエイムのRシリーズ
接続方向を指定したケーブルの端末側には樹脂製チューブと金属製スタビライザーが装着されているが、この素材、重量、位置は試聴を繰り返すことによって厳密に決められている。ケーブル自体の振動モードを解析すれば、特定の位置に異種素材を組み合わせることで効果的に不要振動を打ち消すことができる事実を実証できると思うが、今回はおそらく聴感で適切な位置や重量を追い込んでいるのだと思う。この構造を見て、私は弦楽器の弓の重心調整と音質調整用パーツを思い出した。弓の場合も僅かな重量差や位置の調整が音色に大きな影響を及ぼすことが知られている。
ワイヤーワールドやエイム電子のHDMIケーブルはフラット構造を採用して等長伝送にこだわっているが、ソニーのDLC-9150ES/DLC-9240ESはツインナックスを組み合わせた同軸構造で、ケーブル断面はほぼ円形である。この対照的な構造が画質、音質にどんな影響を与えるのか、非常に興味深いので、映像と音声の両方について、簡単に比較してみることにした。
今回の比較対象はエイム電子のRシリーズだが、長さはソニーが1.5m、エイム電子が3mと異なるため、同一条件での厳密な比較ではないことをお断りしておく。
まずはパイオニアのBDP-LX91とビクターのDLA-HD100をダイレクトに接続し、画質の違いを検証した。『ブレイブハート』では標準レンズ領域の画角での遠近感に差が認められ、ソニーは奥行き方向のなめらかな距離感、エイム電子は人物の立体感がそれぞれ際立つことに気付いた。どちらも不自然な強調感とは無縁なのだが、何度繰り返し見ても、風景全体と人物という具合に視覚上の注意が集中する対象が両者で異なるのは不思議な経験である。『きみに読む物語』でも同様な違いを見出せるが、この作品ではブルーとグリーンの彩度に差があるように思われ、あえて言えばソニーは透明感重視、エイム電子は鮮やかさ重視の傾向がある。しかし、その差は僅かなものだ。
次に、BDP-LX91とオンキョーのTX-SA805をそれぞれのHDMIケーブルで接続し、BDの音質を聴き比べた(TX-SA805はプリ部のみ使用)。発売からしばらく経つTX-SA805では差が出にくいかとも思ったが、厳密に聴き比べるまでもなく、映像以上に大きな違いを聴き取ることができた。
結論から言うと、ソニーのESシリーズは分解能と空間再現力に優位性があり、エイムのRシリーズは主に低域のエネルギー感にメリットがある。ESシリーズは、ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管のBDにおいて、このホール特有の天井の高さ、ステージ上方に抜ける温かい残響感が耳に蘇ってくる。同じNHKのBDを例にとると、エイムのRシリーズは小澤指揮の『幻想交響曲』の最終楽章、低弦と金管楽器の重量級のサウンドに説得力がある。そのほかにも音色やスピード感に微妙な差を聴き取ることができるが、3次元の音場再現力を重視するなら、ソニーの新しいHDMIケーブルは有力な候補になると思う。
3D機器や4K2Kディスプレイが登場すると、否応なくHDMI 1.4対応ケーブルの話題が盛り上がると思うが、その前に、既存のAV機器でも顕著な差が出ることがわかった。今回の画質&音質比較の最大の成果は、その違いの大きさにあらためて気付いたことである。
高井工芸、箱根寄木細工を使用した寄木スピーカー最上位「HC-TY201」を発売 [ファミリー]
高井工芸は、箱根小田原寄木細工の無垢材をエンクロージャーに使用した寄木スピーカー“Yosegi”シリーズの最上位モデル「Yosegi-L(HC-TY201)」を発売している。同社サイトでは280,000円(税込)で販売する。
Yosegi-L(HC-TY201)
シンプルな形状に華やかな寄木細工を4面使用し、バッフル板と背面板にはブラックウォールナット無垢材を採用した2ウェイバスレフ型スピーカー。
定格インピーダンスは4Ω、最大入力は50W、定格感度レベルは90dB/W/m、定格周波数帯域は55Hz~32KHz、クロスオーバー周波数は2.3kHz。
内部は向かい合う面を持たぬように、剛性力と音抜けの良い桧合板を積層する形で貼り付け、内部壁面に傾斜を持たせて共振を抑制。また振動伝達力が高い寄木細工を厚さ6mmまで薄くし、エンクロージャー自体を楽器のように響かせることで小型サイズながらスケールの大きな再生が可能だという。
空洞現象を抑えるため、バッフル板裏側ユニット取り付け穴に45度の斜め面を施すなど手間をかけて製作された内部構造 背面端子部はバナナプラグ対応ネジ式ターミナルを採用
ユニットは、ネオジウムマグネットを採用。100mmペーパーコーンウーファーはヒートシンク仕様のものを搭載。30mmのシルクソフトドームトゥイーターは、磁性流体を使わないものを採用し、細部まで充実な再現を可能とするという。
【問い合わせ先】
高井工芸
TEL/0463-57-2551
Yosegi-L(HC-TY201)
シンプルな形状に華やかな寄木細工を4面使用し、バッフル板と背面板にはブラックウォールナット無垢材を採用した2ウェイバスレフ型スピーカー。
定格インピーダンスは4Ω、最大入力は50W、定格感度レベルは90dB/W/m、定格周波数帯域は55Hz~32KHz、クロスオーバー周波数は2.3kHz。
内部は向かい合う面を持たぬように、剛性力と音抜けの良い桧合板を積層する形で貼り付け、内部壁面に傾斜を持たせて共振を抑制。また振動伝達力が高い寄木細工を厚さ6mmまで薄くし、エンクロージャー自体を楽器のように響かせることで小型サイズながらスケールの大きな再生が可能だという。
空洞現象を抑えるため、バッフル板裏側ユニット取り付け穴に45度の斜め面を施すなど手間をかけて製作された内部構造 背面端子部はバナナプラグ対応ネジ式ターミナルを採用
ユニットは、ネオジウムマグネットを採用。100mmペーパーコーンウーファーはヒートシンク仕様のものを搭載。30mmのシルクソフトドームトゥイーターは、磁性流体を使わないものを採用し、細部まで充実な再現を可能とするという。
【問い合わせ先】
高井工芸
TEL/0463-57-2551
ポール・マッカートニーの事紹介 ビートルズ解散~現在まで [ファミリー]
ビートルズ解散直後
1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、評論家からは作品の極めて簡素で素朴な内容を批判された。
『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クラインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
ウイングス
ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻・リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。
1980年代
コンサート・ツアーの一環で行なう日本公演のためウイングスを随えて1980年1月16日、成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。
当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「カミング・アップ」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。しかし1980年12月8日(23時頃)、そのレノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。
レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソン、エリック・スチュワート、オービー・トライス、エルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。マイケル・ジャクソンとは彼の世界的な大ヒットアルバムの『スリラー』で「ガール・イズ・マイン」をデュエットし、またお返しと言う事でマイケルがポールのアルバムで「セイ・セイ・セイ」をデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。また、1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、サントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1980年代中盤にはヒュー・パジャムやフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。
ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、1980年代中盤は現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年にソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。1989年から翌年にかけて行われ、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏され、大きな好評を博した。ツアーの一環で、1990年3月には24年ぶりの来日公演も実現している。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。
1990年代
1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。
1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行われている。
1994年からは、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。
1995年からはリンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。
近年
2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。
2002年にはアメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2004年にはロシアのモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。
2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。
2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。 このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。
2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。12月、iTunes Storeでセレブリティ・プレイリストを発表し、ジーン・ヴィンセント、ビーチ・ボーイズ、レディオヘッド、セックス・ピストルズ、レイ・チャールズ、フレッド・アステア、キラーズ、ジョン・レノン(イマジン)、リトル・リチャード、エルビス・プレスリーを選んだ。
日本公演
ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして3度来日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の来日公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の来日公演を行うはずだった。しかし来日直前になって法務省によりマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴でビザが取り消され、公演は中止となる。それから5年後の1980年1月16日にウイングスとして来日したものの、今度は成田空港にて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され、ツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与え、彼自身は、出発前から書いていた曲に、「フローズン・ジャパニーズ」という日本を皮肉るタイトルを付けた。この事件は本国イギリスでも大きく報道され1月17日付のタイムズ紙では1面に手錠姿で警察へ連行されるポールの写真が大きく掲載された。
1980年の事件後にマッカートニーは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、彼の世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなった。日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来24年ぶりの来日公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行った。
1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び来日し、東京ドームで3公演、福岡ドーム(18日・19日)で2公演を行った。
2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。
公演日程
Get Back Tour In Japan 1990年3月3日、5日、7日、9日、11日、13日 東京ドーム
尚、この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を、1日置きにして欲しい。」と要求し、急遽7公演より6公演に変更した。なお、3月8日公演に延期公演は設定されず、また他の6公演も全席完売となっていた為他の公演日に振り返ることも出来ず、結局中止となりチケットの払い戻しを行った。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんで欲しい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを、各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像にて楽しんでもらう企画)を行った。
THE NEW WORLD TOUR 1993年11月11日、14日、15日 東京ドーム、11月18日、19日 福岡ドーム
driving japan tour 2002年11月11日、13日、14日 東京ドーム、11月17日、18日 大阪ドーム
1970年4月10日、ポール・マッカートニーはイギリスの大衆紙『デイリー・ミラー』でビートルズからの脱退を発表(厳密には、後述のソロアルバム『マッカートニー』販促用に用意した「ポールとの一問一答」という資料の中に「ソロキャリアのスタート」「今後ビートルズのメンバーと作曲することはない」というポールの発言があるのをデイリー・ミラー紙がすっぱ抜いたもの)。これによってビートルズは実質的に解散した。その1週間後(4月17日)、騒動の最中に彼は初のオリジナル・アルバム『マッカートニー』を発売する。脱退の反響が巻き起こした宣伝効果は大きく、アルバムは非常に好調な売れ行きを見せたが、ジョン・レノンからは「グループの脱退宣言をアルバムの宣伝に利用した」として非難され、評論家からは作品の極めて簡素で素朴な内容を批判された。
『マッカートニー』に漂っていたアットホームな作風は、翌1971年に発表されたシングル『アナザー・デイ』およびアルバム『ラム』にも受け継がれる。妻のリンダとの連名で発表した『ラム』は前作同様商業的な成功こそ収めたものの、評論家からは手厳しい批評を受けた。アラン・クラインにまつわる訴訟問題などで険悪な関係に陥っていたビートルズの元メンバーも、『ラム』に対して皮肉じみたコメントを残している。しかしながら、この作品は現在ではその質の高い内容から、彼の傑作のひとつとして高く評価されている。このアルバムからアメリカ限定でシングル・カットされた「アンクル・アルバート〜ハルセイ提督」は、1972年度のグラミー賞で最優秀アレンジメント賞を獲得した。
ウイングス
ビートルズ末期からライヴ活動再開を指向していたマッカートニーは1971年8月、新たなバンドの結成を発表する。彼以外のメンバーは妻・リンダ・マッカートニー、元ムーディー・ブルースのデニー・レイン、『ラム』に参加していたドラマーのデニー・シーウェル。ウイングスと名付けられたこのグループは流動的なメンバー・チェンジを繰り返しながらも、多くのヒット作を発表し、大規模なワールドツアーを敢行するなど1970年代を通じて活躍した。
1980年代
コンサート・ツアーの一環で行なう日本公演のためウイングスを随えて1980年1月16日、成田空港にて入国したマッカートニーは、大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕される。日本公演は全て中止。この逮捕をきっかけにグループとしての活動が休止状態に陥ったウイングスは、翌1981年4月のデニー・レインの脱退表明によって自然消滅に近い形で終焉を迎える。数日間の勾留のあと、日本からの国外退去処分を受けて本国・イギリスに送還されたマッカートニーは、ソロ・アーティストとしての活動を9年ぶりに再開。10年ぶりとなるソロ名義のアルバム『マッカートニーII』と先行シングル「カミング・アップ」で成功を収めた。
当時休止していた音楽活動を再開させつつあったジョン・レノンは、この「カミング・アップ」を聴いて再起への意欲を一層奮い立たせたという。しかし1980年12月8日(23時頃)、そのレノンがニューヨークの自宅アパート、「ダコタ・ハウス」の前で精神疾患者・マーク・チャップマンによって拳銃で射殺される衝撃的な事件が発生する。作曲活動のパートナーとして、ビートルズの黄金時代を共に築いたレノンの突然の訃報にマッカートニーは大きな衝撃を受け、数か月間、自宅に引き篭もって過ごした。
レノンの死によるショックで一時的に中断していた音楽活動を翌年に再開させたマッカートニーは、プロデューサーのジョージ・マーティンの進言で名うてのスタジオ・ミュージシャンをレコーディングに起用し、カール・パーキンスやスティーヴィー・ワンダーなどとのデュエットも行った。アルバム『タッグ・オブ・ウォー』と『パイプス・オブ・ピース』の母体となったこの時期のセッション以降、1980年代にマッカートニーはマイケル・ジャクソン、エリック・スチュワート、オービー・トライス、エルヴィス・コステロなど、さまざまな大物ミュージシャンとの共演に臨んだ。マイケル・ジャクソンとは彼の世界的な大ヒットアルバムの『スリラー』で「ガール・イズ・マイン」をデュエットし、またお返しと言う事でマイケルがポールのアルバムで「セイ・セイ・セイ」をデュエットしている。この曲も全米、全英で1位を獲得した。また、1984年には自らが脚本・音楽を手がけ、主演した初の映画作品『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開するが、サントラ盤や主題歌が商業的な成功を収めたのとは対照的に映画自体の内容は酷評され、興行的にも失敗に終わっている。1980年代中盤にはヒュー・パジャムやフィル・ラモーンなどの有名なプロデューサーを起用して音楽活動を行うが、1986年の『プレス・トゥ・プレイ』はチャート順位・売上共に不振に終わり、評論家からの評判も芳しくなかった。また、この頃を境に以前のような大きなヒット曲に恵まれなくなる。1985年の映画『スパイ・ライク・アス』の主題歌『スパイズ・ライク・アス』は、彼にとって現時点で最後の全米トップ10ヒットである。
ジョージ・ハリスンが久々に音楽産業で成功を収めたのとは対照的に、1980年代中盤は現役としての人気が低迷していたマッカートニーだったが、1989年発表の『フラワーズ・イン・ザ・ダート』はコステロとの共作の話題性も手伝って久々のヒットを記録し、全世界で250万枚以上を売り上げた。また、一方で彼は少年時代に慣れ親しんだロックンロールのスタンダード・ナンバーを歌った初のカヴァー集を制作し、1988年にソ連限定で発表した。マッカートニー夫妻は『フラワーズ・イン・ザ・ダート』の発売後、アルバムに参加したスタジオ・ミュージシャン4人とともに10年ぶりの本格的なライヴ活動を開始する。1989年から翌年にかけて行われ、のちに『ゲット・バック・ツアー』と称されたこのワールド・ツアーでは、彼が長年演奏を躊躇していたビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏され、大きな好評を博した。ツアーの一環で、1990年3月には24年ぶりの来日公演も実現している。ツアー終盤、1990年4月21日のブラジル、リオデジャネイロのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新した。このツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発売され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。
1990年代
1991年初頭にはMTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』としてリリースされる。マッカートニーはポピュラー音楽以外のジャンルにも挑戦し、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演する。アメリカ人作曲家カール・デイヴィスとの共作で、ヴォーカリストにキリ・テ・カナワとアメリカのテノール歌手ジェリー・ハドレーを迎えたこの作品は、同名のライヴ盤もリリースされた。これ以降、現在に至るまで彼はロックやポップスと並行して数作のクラシック作品を発表している。
1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表したマッカートニーは、『アンプラグド』と同じラインナップのバックバンドを率いてコンサート・ツアーを行う。『ニュー・ワールド・ツアー』と題されたこのツアーは、前回のツアーで訪れることのできなかった地域を中心にコンサートが行われ、公演の模様はライヴ盤とビデオで発売された。なお、当初はスケジュールに組み込まれていなかった日本でのライヴもこの年の秋に行われている。
1994年からは、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトが本格的に始動した。とりわけ注目されたのが「25年ぶりの新曲発表」と大々的に報道された新録音である。レノン以外の3人のメンバーが、彼の1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるというこの企画は、1980年代後半にハリスンをカムバックに導いたことでも知られるエレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力を経て、最終的に「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」として結実した。
1995年からはリンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、1997年に『フレイミング・パイ』としてリリースする。この作品は全米と全英のチャート両方で高順位を記録しただけでなく、翌年の第40回グラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネートされるなどその内容も賞賛された。1998年に長年連れ添った妻のリンダが乳癌で亡くなると、マッカートニーは結婚後から彼を支え続けた愛妻の死を悼んで2作のクラシック作品を捧げ、さらに彼女が生前に提案していたロックン・ロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』として発売した。
近年
2001年、ウイングス時代の軌跡を振り返るドキュメンタリー作品『ウイングスパン』を発表。2枚組の同名ベスト盤も同時発売され、アメリカでは100万セットを売り上げてプラチナ・ディスクに認定された。同年の秋にはリンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表している。
2002年にはアメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。このツアーのようすを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S. -ライブ2002』はアメリカでミリオン・セラーを記録した。このアルバムが発売された同年11月には、3度目のソロでの来日公演が行われた。その後彼は幾度に渡り、積極的なライヴ活動を行っている。2004年にはロシアのモスクワにある「赤の広場」でコンサートを開いて話題となった。またこのコンサートはロシアにとっても初めての外国人のアーティストの大規模なコンサートになった。ロシアは西洋や外国のロックなど今まで受け入れなかったが、このコンサートがモスクワで大成功を納めポールが史上初めてロシアで成功したアーティストとなった。2005年には「ライブ・イン・ザ・U.S.2005」としてアメリカツアーを行い、その中のカリフォルニア州のアナハイムでのコンサートでは、歴史上初の地球から約220マイル上空の宇宙飛行士へ生中継のライブをアメリカのNASAを通じて宇宙へ送った。この時のナンバーはイングリシュ・ティとビートルズナンバーのグッド・デイ・サンシャインだった。この出来事はステージから宇宙飛行士へリアルタイムで交信し、地球から宇宙へライブを放送した史上初のアーティストとなった。
2003年から2005年春までの長期間に渡り、マッカートニーはレディオヘッドなどの作品で知られるナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えてアルバムを制作する。2005年の秋に『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード』として発表されたこのアルバムは2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネートされ、アルバムに先がけてシングル・カットされた「ファイン・ライン」も、同賞のソング・オブ・ザ・イヤーの候補に挙がった。また、2007年の第49回グラミー賞に最優秀男性ポップボーカル賞に「ジェニー・レン」がノミネートされた。
2007年、長年契約していた『EMI』から、新興レーベル『ヒア・ミュージック』に電撃移籍。日本での発売元も『東芝EMI』から『ユニバーサル』に変わった。2007年6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。 このアルバムでも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに全米では1982年のタッグ・オブ・ウォー以来となるオリジナルアルバムでのプラチナ・ディスクに認定された。
2008年、ブリット・アワードにて特別功労賞を受賞。12月、iTunes Storeでセレブリティ・プレイリストを発表し、ジーン・ヴィンセント、ビーチ・ボーイズ、レディオヘッド、セックス・ピストルズ、レイ・チャールズ、フレッド・アステア、キラーズ、ジョン・レノン(イマジン)、リトル・リチャード、エルビス・プレスリーを選んだ。
日本公演
ポール・マッカートニーは、ビートルズ解散後にソロ・アーティストとして3度来日し、ツアーを行っている。だが、ウイングスとして活動していた1970年代に彼の来日公演が実現することはなかった。もともとウイングスは1975年に初の来日公演を行うはずだった。しかし来日直前になって法務省によりマッカートニー夫妻の薬物犯罪歴でビザが取り消され、公演は中止となる。それから5年後の1980年1月16日にウイングスとして来日したものの、今度は成田空港にて大麻不法所持の容疑で現行犯逮捕され、ツアーは中止された。この事件はスネークマンショーによりパロディにされるなど、日本の音楽界に大きな影響を与え、彼自身は、出発前から書いていた曲に、「フローズン・ジャパニーズ」という日本を皮肉るタイトルを付けた。この事件は本国イギリスでも大きく報道され1月17日付のタイムズ紙では1面に手錠姿で警察へ連行されるポールの写真が大きく掲載された。
1980年の事件後にマッカートニーは入国管理局のブラック・リストに登録され、これにより日本には永久に入国できないことになっていた。しかし、彼の世界的な文化貢献の認知度などにより、日本入国の特別許可が認められることとなった。日本での事件から10年後の1990年3月、彼はビートルズ時代以来24年ぶりの来日公演を果たした。日本でのツアーで、彼は東京ドームで6公演を行った。
1993年11月にはワールド・ツアーの一環として再び来日し、東京ドームで3公演、福岡ドーム(18日・19日)で2公演を行った。
2002年11月、9年ぶりとなる来日公演を行い、東京ドーム3公演、大阪ドーム2公演を行った。
公演日程
Get Back Tour In Japan 1990年3月3日、5日、7日、9日、11日、13日 東京ドーム
尚、この公演は当初、3月2日、3日、5日、6日、8日、9日、11日の計7公演が予定されていたが、2月初旬に行ったアメリカツアーで体調不良となり、公演直前に「公演日の日程を、1日置きにして欲しい。」と要求し、急遽7公演より6公演に変更した。なお、3月8日公演に延期公演は設定されず、また他の6公演も全席完売となっていた為他の公演日に振り返ることも出来ず、結局中止となりチケットの払い戻しを行った。また、3月9日の公演は「東京へ来られないファンへ、映像でコンサートを楽しんで欲しい」との趣旨で、「クローズド・サーキット」(実際のコンサートを、各地方都市の会場に衛星生中継を行い、映像にて楽しんでもらう企画)を行った。
THE NEW WORLD TOUR 1993年11月11日、14日、15日 東京ドーム、11月18日、19日 福岡ドーム
driving japan tour 2002年11月11日、13日、14日 東京ドーム、11月17日、18日 大阪ドーム
WINGS 歴代メンバー紹介 10年間活動歩みの中で [ファミリー]
10年の活動期間の中で、ウイングスは頻繁にメンバーチェンジを繰り返した。歴代のメンバー編成は次の通りである。
1971年8月–1972年1月 1972年2月–1973年8月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
デニー・シーウェル: ドラムス
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
デニー・シーウェル: ドラムス
ヘンリー・マッカロク: ギター
1973年8月–1974年5月 1974年5月–1975年1月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード、ドラムス
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ジミー・マッカロク: ギター、ヴォーカル
ジェフ・ブリトン: ドラムス
1975年8月–1977年9月 1977年9月–1978年5月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ジミー・マッカロク: ギター、ヴォーカル
ジョー・イングリッシュ: ドラムス
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード、ドラムス
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
1978年5月–1981年4月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
スティーヴ・ホリー: ドラムス
ローレンス・ジュバー: ギター
1971年8月–1972年1月 1972年2月–1973年8月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
デニー・シーウェル: ドラムス
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
デニー・シーウェル: ドラムス
ヘンリー・マッカロク: ギター
1973年8月–1974年5月 1974年5月–1975年1月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード、ドラムス
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ジミー・マッカロク: ギター、ヴォーカル
ジェフ・ブリトン: ドラムス
1975年8月–1977年9月 1977年9月–1978年5月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
ジミー・マッカロク: ギター、ヴォーカル
ジョー・イングリッシュ: ドラムス
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード、ドラムス
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
1978年5月–1981年4月
ポール・マッカートニー: ヴォーカル、ベース、ギター、キーボード
リンダ・マッカートニー: キーボード、ヴォーカル
デニー・レイン: ギター、ヴォーカル、キーボード
スティーヴ・ホリー: ドラムス
ローレンス・ジュバー: ギター
WINGSのアルバム・DVD 紹介 [ファミリー]
アルバム・ディスコグラフィ
オリジナル・アルバム
ワイルド・ライフ - Wild Life (1971年)
CDにはボーナストラックとして「アイルランドに平和を -Give Ireland Back to the Irish -」と、
「メアリーの子羊 - Mary Had a Little Lamb - 」が収録されている。
レッド・ローズ・スピードウェイ - Red Rose Speedway (1973年)
「マイ・ラヴ - My Love - 」、
「リトル・ラム・ドラゴンフライ - Little Lamb Dragonfly - 」収録
バンド・オン・ザ・ラン - Band on the Run (1973年)
「バンド・オン・ザ・ラン - Band on the Run - 」、
「ジェット - Jet - 」収録
ヴィーナス・アンド・マース - Venus and Mars (1975年)
「あの娘におせっかい - Listen to What the Man Said - 」収録
スピード・オブ・サウンド - Wings at Speed of Sound (1976年)
「幸せのノック - Let 'em In - 」、
「心のラヴ・ソング - Silly Love Songs - 」収録
ロンドン・タウン - London Town (1978年)
「たそがれのロンドン・タウン - London Town - 」、
「しあわせの予感 - With a Little Luck - 」収録
CDにはボーナストラックとして「夢の旅人 - Mull of Kintyre - 」が収録されている。
バック・トゥ・ジ・エッグ - Back to the Egg (1979年)
CDにはボーナストラックとして「ワンダフル・クリスマスタイム - Wonderful Christmastime - 」が収録されている。
ライヴ・アルバム
『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』 - Wings Over America (1976年)
『カンボジア難民救済コンサート』 - Concerts for the People of Kampuchea (1981年、オムニバス)
ベスト・アルバム
『グレイテスト・ヒッツ』 - Wings Greatest (1978年)
『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』 - Wingspan:Hits and History (2001年、ポール・マッカートニー名義)
ビデオ・DVD
『ロックショウ』 - Rock Show (1981年)—1976年6月10日に行われたアメリカ、シアトルのキング・ドーム公演を収めた記録映画。日本で公開された劇場版のみ上映時間が約30分長い。
『ウイングスパン』 - Wingspan - An Intimate Portrait (2001年)ウィングスの活動を振り返ったドキュメンタリー作品。
オリジナル・アルバム
ワイルド・ライフ - Wild Life (1971年)
CDにはボーナストラックとして「アイルランドに平和を -Give Ireland Back to the Irish -」と、
「メアリーの子羊 - Mary Had a Little Lamb - 」が収録されている。
レッド・ローズ・スピードウェイ - Red Rose Speedway (1973年)
「マイ・ラヴ - My Love - 」、
「リトル・ラム・ドラゴンフライ - Little Lamb Dragonfly - 」収録
バンド・オン・ザ・ラン - Band on the Run (1973年)
「バンド・オン・ザ・ラン - Band on the Run - 」、
「ジェット - Jet - 」収録
ヴィーナス・アンド・マース - Venus and Mars (1975年)
「あの娘におせっかい - Listen to What the Man Said - 」収録
スピード・オブ・サウンド - Wings at Speed of Sound (1976年)
「幸せのノック - Let 'em In - 」、
「心のラヴ・ソング - Silly Love Songs - 」収録
ロンドン・タウン - London Town (1978年)
「たそがれのロンドン・タウン - London Town - 」、
「しあわせの予感 - With a Little Luck - 」収録
CDにはボーナストラックとして「夢の旅人 - Mull of Kintyre - 」が収録されている。
バック・トゥ・ジ・エッグ - Back to the Egg (1979年)
CDにはボーナストラックとして「ワンダフル・クリスマスタイム - Wonderful Christmastime - 」が収録されている。
ライヴ・アルバム
『ウイングスU.S.A.ライヴ!!』 - Wings Over America (1976年)
『カンボジア難民救済コンサート』 - Concerts for the People of Kampuchea (1981年、オムニバス)
ベスト・アルバム
『グレイテスト・ヒッツ』 - Wings Greatest (1978年)
『夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー〜』 - Wingspan:Hits and History (2001年、ポール・マッカートニー名義)
ビデオ・DVD
『ロックショウ』 - Rock Show (1981年)—1976年6月10日に行われたアメリカ、シアトルのキング・ドーム公演を収めた記録映画。日本で公開された劇場版のみ上映時間が約30分長い。
『ウイングスパン』 - Wingspan - An Intimate Portrait (2001年)ウィングスの活動を振り返ったドキュメンタリー作品。
WINGSを久々に聞きました。 WINGS知っていますか? [ファミリー]
ポールがビートルズと並行して創ったグループです。亡妻リンダ・ポールを中心にメンバーを色々交代していたグループです。最後は自然消滅したような感じです。(リンダ死後)
久々のWINGSは結構懐かしく聞きました。ロックショーに始り Jet は今聞いてもいい曲です。
後は、お決まりのビートルズメドレー・Wingsの曲が数曲でしたね。
福岡ドームにポールが来日公演した時も観ましたが、ビートルズの曲中心でしたね!ビートルズの曲になると歓声が大きくなるからでしょうね!生ポール聴いたら 感動しますよ!生ビートルズの曲ですからね!今日はライブを観ようと思います。LD・DVDを数枚持っていますので!
WINGS USA LIVE
CD1
メドレー:ヴィーナス・アンド・マース/ロック・ショー/ジェット-Venus and Mars/Rock Show/Jet
レット・ミー・ロール・イット -Let Me Roll It
遥か昔のエジプト精神 -Spirits of Ancient Egypt
メディシン・ジャー -Medicine Jar
メイビー・アイム・アメイズド -Maybe I'm Amazed
コール・ミー・バック・アゲイン -Call Me Back Again
レディ・マドンナ -Lady Madonna
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード -The Long and Winding Road
007死ぬのは奴らだ -Live and Let Die (アナログ盤はここまでがディスク1)
ピカソの遺言 -Picasso's Last Words (Drink To Me)
リチャード・コーリー -Richard Cory
ブルーバード -Bluebird
夢の人 -I've Just Seen a Face
ブラックバード -Blackbird
イエスタデイ -Yesterday
CD2
幸せのアンサー -You Gave Me the Answer
磁石屋とチタン男 -Magneto and Titanium Man
ゴー・ナウ -Go Now
マイ・ラヴ -My Love
あの娘におせっかい -Listen to What the Man Said (アナログ盤はここまでがディスク2)
幸せのノック -Let 'Em In
やすらぎの時 -Time to Hide
心のラヴ・ソング -Silly Love Songs
愛の証し -Beware My Love
ワインカラーの少女 -Letting Go
バンド・オン・ザ・ラン -Band on the Run
ハイ・ハイ・ハイ -Hi Hi Hi
ソイリー -Soily (アナログ盤はここまでがディスク3)
久々のWINGSは結構懐かしく聞きました。ロックショーに始り Jet は今聞いてもいい曲です。
後は、お決まりのビートルズメドレー・Wingsの曲が数曲でしたね。
福岡ドームにポールが来日公演した時も観ましたが、ビートルズの曲中心でしたね!ビートルズの曲になると歓声が大きくなるからでしょうね!生ポール聴いたら 感動しますよ!生ビートルズの曲ですからね!今日はライブを観ようと思います。LD・DVDを数枚持っていますので!
WINGS USA LIVE
CD1
メドレー:ヴィーナス・アンド・マース/ロック・ショー/ジェット-Venus and Mars/Rock Show/Jet
レット・ミー・ロール・イット -Let Me Roll It
遥か昔のエジプト精神 -Spirits of Ancient Egypt
メディシン・ジャー -Medicine Jar
メイビー・アイム・アメイズド -Maybe I'm Amazed
コール・ミー・バック・アゲイン -Call Me Back Again
レディ・マドンナ -Lady Madonna
ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード -The Long and Winding Road
007死ぬのは奴らだ -Live and Let Die (アナログ盤はここまでがディスク1)
ピカソの遺言 -Picasso's Last Words (Drink To Me)
リチャード・コーリー -Richard Cory
ブルーバード -Bluebird
夢の人 -I've Just Seen a Face
ブラックバード -Blackbird
イエスタデイ -Yesterday
CD2
幸せのアンサー -You Gave Me the Answer
磁石屋とチタン男 -Magneto and Titanium Man
ゴー・ナウ -Go Now
マイ・ラヴ -My Love
あの娘におせっかい -Listen to What the Man Said (アナログ盤はここまでがディスク2)
幸せのノック -Let 'Em In
やすらぎの時 -Time to Hide
心のラヴ・ソング -Silly Love Songs
愛の証し -Beware My Love
ワインカラーの少女 -Letting Go
バンド・オン・ザ・ラン -Band on the Run
ハイ・ハイ・ハイ -Hi Hi Hi
ソイリー -Soily (アナログ盤はここまでがディスク3)
ポール・マッカートニーの息子が英国ライブツアーをするそうですよ! [ファミリー]
元ビートルズのポール・マッカートニーの息子で歌手のジェームズ・マッカートニー(32)が、今月下旬に初の英国ツアーを開催することが明らかになった。英音楽誌NMEが3日報じた。
ジェームズは、ポールと1998年に亡くなった前妻リンダとの間に生まれた子ども。過去2年間をかけてデビューアルバムを制作してきたが、発売予定は発表されていない。
ジェームズは自身の音楽について、ビートルズやニルヴァーナなどから影響を受けたと説明。制作してきたアルバムについて、「精神性や愛、家族などを表現している」と述べている。
ツアーは、今月25日にビートルズ誕生の地であるリバプールからスタートし、最終日の3月20日はカーディフで公演を予定している。
ジェームズは、ポールと1998年に亡くなった前妻リンダとの間に生まれた子ども。過去2年間をかけてデビューアルバムを制作してきたが、発売予定は発表されていない。
ジェームズは自身の音楽について、ビートルズやニルヴァーナなどから影響を受けたと説明。制作してきたアルバムについて、「精神性や愛、家族などを表現している」と述べている。
ツアーは、今月25日にビートルズ誕生の地であるリバプールからスタートし、最終日の3月20日はカーディフで公演を予定している。
貝殻テラス 詩人 Hiroさんの作品紹介 進化 [ファミリー]
進化今まさに、さなぎから蝶に変身するがごとく、
人は変わらなければならないのかも知れません。
そして今、多くの方々がそのことに気づくようにと
苦しみという祝福を天から受けているようです。
しかし、そのことに意味を見出せず、相変わらず
元に戻ろうとしている人もいます。
落ち込んだら、何とか以前の状態に戻ろうとしますが、
それでは、元の木阿弥だと・・・そう聞いたのは私だけでしょうか。
今のままでよければその様な出来事は起きてきません。
そうではないから、変化を促しているわけです。
人は変化を求めながらも、変わることに恐れを感じています。
それは、落ち込む前の状況が心地よいからでしょう。
そして安定していた頃を懐かしみます。
そして、既に変化の兆しは来ているにもかかわらず、
相変わらず、努力、根性、一生懸命という言葉が大好きです。
その言葉が悪いといっているのではありません。
若い方々の価値観が変化しているのは、
本能的に時代を先読みしているのかもしれないのです。
変わろうとしているのに、それをなんとか維持しようとして苦しむのです。
変わっていっているのに、川の流れに逆らうようなことをしてしまいます。
落ち込むとは、あなたに変化を促しているのではないでしょうか。
そのことがわかったのは、私自身はずっと後のことでした。
随分と遠回りをしましたが・・・それで良かったのだと思います。
今の時代、人は本当に未曾有の体験をすることになると、
そんなことを思っているのは私だけではありません。
時代がそれを見せています。
さなぎから、蝶へ・・・人の集合意識はそれを既に決めているようです。
出来事は、脱皮を促しているといっても過言ではないかも知れないのです
人は変わらなければならないのかも知れません。
そして今、多くの方々がそのことに気づくようにと
苦しみという祝福を天から受けているようです。
しかし、そのことに意味を見出せず、相変わらず
元に戻ろうとしている人もいます。
落ち込んだら、何とか以前の状態に戻ろうとしますが、
それでは、元の木阿弥だと・・・そう聞いたのは私だけでしょうか。
今のままでよければその様な出来事は起きてきません。
そうではないから、変化を促しているわけです。
人は変化を求めながらも、変わることに恐れを感じています。
それは、落ち込む前の状況が心地よいからでしょう。
そして安定していた頃を懐かしみます。
そして、既に変化の兆しは来ているにもかかわらず、
相変わらず、努力、根性、一生懸命という言葉が大好きです。
その言葉が悪いといっているのではありません。
若い方々の価値観が変化しているのは、
本能的に時代を先読みしているのかもしれないのです。
変わろうとしているのに、それをなんとか維持しようとして苦しむのです。
変わっていっているのに、川の流れに逆らうようなことをしてしまいます。
落ち込むとは、あなたに変化を促しているのではないでしょうか。
そのことがわかったのは、私自身はずっと後のことでした。
随分と遠回りをしましたが・・・それで良かったのだと思います。
今の時代、人は本当に未曾有の体験をすることになると、
そんなことを思っているのは私だけではありません。
時代がそれを見せています。
さなぎから、蝶へ・・・人の集合意識はそれを既に決めているようです。
出来事は、脱皮を促しているといっても過言ではないかも知れないのです